基幹バス研究会(担当:福本雅之)
成長する経済と増大する自動車
名古屋市において基幹バスが導入された経緯を理解するためには、当時の名古屋市をはじめとした日本の都市において生じていた交通問題について知っておく必要があります。
基幹バスについて検討がされ始めた1970年代前後、日本は高度経済成長のまっただ中であり、今では信じられないことですが年率10%の実質GDP成長率(7年で給料が倍になる計算!)が続いている状況でした。好調な経済成長を背景に、国民の所得は増加し、自家用車が急速に普及するモータリゼーションが生じました。
しかし、光が強ければ影が濃くなるもので、庶民にとって自家用車が高嶺の花ではなくなる一方で、いわゆる交通戦争と呼ばれる交通事故の増加、道路混雑の激化、排気ガスや騒音・振動による公害問題などに日本の都市は悩まされることとなりました。
戦前から鉄道・地下鉄が整備されてきた東京、大阪では、経済成長による移動需要の増大を軌道系公共交通が引き受けられたのに対し、軌道系公共交通が少ない一方で、戦後復興の中で道路を充実させてきた名古屋市においては、移動需要の増加は自家用車交通の増加に直結しました。
この状況に対応するために
- 増大する移動需要に対応するため、大量輸送機関としての地下鉄の建設推進
- 自動車交通を円滑化するため、自動車走行空間の拡大(道路拡幅、路面電車の廃止)
- 通過交通量を減少させるための都市高速道路の建設
といった政策が実施されることとなりました。
しかしながら、
- 地下鉄の建設は都市交通問題解決の切り札であるが、建設費が膨大であることと建設に時間がかかるため、短期間で効果を上げることが難しい
- 既存市街地内において道路の拡幅には沿線住民の立ち退きなどが必要であり、実施に時間がかかる。速度の遅い路面電車廃止は自動車の走行空間拡大のために実施されたが、代替手段としてのバスは渋滞の影響を受ける
- 都市高速道路に対しては、排気ガスや騒音と行った公害問題から反対運動が起きており、建設までに時間を要する
といった問題がありました。
名古屋市は自動車産業の集積地であることや戦災復興に際して幅員の広い道路を多く建設したという背景に加え、公共交通整備の遅れから東京・大阪と比べて自動車に依存した交通体系となっていましたが、1970年代当時、依然として自動車を利用できない人は多数存在しました。図-1に示すように、当時の名古屋市における1世帯あたりの乗用車の保有台数を見ると、1970年時点で0.22台、1975年には0.56台であり、急激な伸びを示していたものの、1970年代前半の時点では半数以上の世帯で自家用車が利用できない状況でした。つまり、「クルマの街」と呼ばれる名古屋であっても、自家用車が利用できない人は決して少数派ではなかったことがわかります。

区別自動車台数の推移(https://www.city.nagoya.jp/shisei/toukei/1003703/1003773/1004002/1004004.html)
人口の推移(市制施行(明治22年)以降)(https://www.city.nagoya.jp/shisei/toukei/1003703/1003706/1003711.html)
より作成
こうした状況の中、1973年4月の名古屋市長選挙で都市高速道路建設反対派の支援を受けた本山政雄氏が勝利したことで、自動車交通への対応を重視してきた名古屋市の交通政策に転機が訪れます。
「専用走行空間を持つバス」
都市高速道路建設反対派の支援を受けた本山市政ではありますが、現実的に建設が進みつつあった都市高速道路の建設を全面凍結することは難しく、様々な紆余曲折の末、排ガス・騒音・振動対策として新設区間の地下化など、沿道環境に配慮しつつ都市高速道路の整備は引き続き進められることとなりました。
一方で、自動車利用層以外にも直接的な恩恵が及ぶ施策として公共交通機関の利用環境改善も強く求められることとなりました。そこで、引き続き、地下鉄の建設を継続するとともに、増大する交通需要を引き受ける幹線的な公共交通サービスを、短期間で、なるべく安価に整備することが求められました。
このころ、「新交通システム(AGT)」と呼ばれる都市内に比較的安価に整備することを狙った新たな交通モードが各社で開発されており、名古屋市でもこれらを検討したということですが、開発途上のシステムであることなどから導入は見送られました。
信頼のできる運行とするためには、開発途上でなく、確立した既存の技術を用いたシステムとすることが望ましいとされ、名古屋市に隣接する豊田市の「市民高速ライン」構想の中で出てきた「専用走行空間を持つバス」というアイディアが検討の俎上に上がります。
こうした動きへと至ったのは、第2回で触れたように、豊田市での検討が研究者やコンサルタント技術者のみならず、近隣自治体の技術職員といった多様な専門家が参画する中で検討されたことに関係あります。豊田市の市民高速ラインの構想は結局実現しませんでしたが、この検討に参加していた杉野尚夫氏(名古屋市職員)や、竹内伝史氏(当時:中部工業大学講師)をはじめとした名古屋大学工学部土木工学科計画系研究室の卒業生を中心とするメンバーが、1977年の名古屋市総合交通計画研究会に再度集結することで、基幹バスが実現に向けて走り出すこととなりました。この人間ドラマについては稿を改めたいと思います。


