【連載】:名古屋の基幹バスの誕生と継続 第2回

基幹バス研究会(担当:福本雅之)

 前回からかなり間が空いてしまいましたが(著者の自己管理不足です)、基幹バスの連載第2回目は、基幹バスの前史である、豊田市の「市民高速ライン」構想について書いていこうと思います。

基幹バス前史:豊田市の「市民高速ライン」構想

1. 豊田市新総合計画の検討

 名古屋市における基幹バス検討の話に入る前に、同じ愛知県の豊田市における公共交通の検討の話を見ておく必要があります。

 豊田市、名古屋市のみならず、1960~70年代の日本の諸都市は、高度経済成長に伴う自動車交通量の増大に起因する、渋滞、大気汚染、交通事故などの交通問題への対応に迫られていました。豊田市においても自動車産業の活発化による活況を呈する反面、道路インフラの整備が追いつかず、渋滞や交通事故が問題となり、その対策が求められていました。

 こうした背景の下で、1970年9月に策定された豊田市新総合計画においては、増大する自動車交通に起因する交通問題の根本的な解決を意図した「市民高速ライン」という構想が提案されました。

 市民高速ラインとは、市内にバス専用道路を張り巡らせて専用走行空間を用いた公共交通サービスを提供するだけでなく、その空間に広場や散歩道、自転車道、防災ライン、用排水施設、通学路などの機能を持たせようとするものでした。つまり、自動車と道路を共有することにより生じる事故や渋滞のリスクを低減するために、バスや歩行者・自転車の通行空間を分離した上で、都市機能を維持するためのインフラをも持たせようとするもので、この実現によって土地利用の誘導も行おうというものでした。

図 市民高速ラインのネットワーク図 出典:1971~1985豊田市新総合計画書
図 市民高速ラインのイメージ 出典:1971~1985豊田市新総合計画書

 こうした革命的とも言える発想が生まれてきたのは、その策定プロセスに求められそうです。この計画の策定は、社団法人中部開発センターに委託されました。中部開発センターでは、名古屋周辺の大学、官公署の23人の専門家からなる「豊田市新総合計画委員会」を組織し、その中で計画の構想がまとめられました。委員会の下には分科会が設置され、のべ61人の専門家が参加し、総費用1,275万円という当時の人口18万人の地方都市では例を見ない体制と費用を投じて計画が策定されたと言います。

2.「市民高速ライン」の具体化と頓挫

 新総合計画の構想を具体化するため、豊田市では1972年以降にも調査や研究会を継続し、新たな交通体系について検討を行いました。最終的に1976年に「豊田市総合交通体系に関する調査研究報告書」がまとめられ、その中では「PMT-X」と名付けられた軌道系の新交通システム(AGT)を導入した上で、市民高速ラインにその補完的役割を担わせるという提案がなされました。1977年にはこの構想の具体化のための調査が行われましたが、整備費が膨大であることや運営赤字が見込まれる試算結果となり、市議会から事業に疑問符を突きつけられたことから、実現することなく現在に至っています。

 歴史に「if」はありませんが、このとき、AGTを導入するという背伸びをした計画とせず、市民高速ラインを中心に据えた交通体系の実現に向けたフィージビリティスタディがなされていれば、あるいは日本の地方都市の公共交通の姿は違ったものになっていたかもしれません。というのは、新総合計画検討の中で行われた試算によると、市民高速ラインの建設および維持は可能という結果だったからです。

 しかしながら、この一連の検討の中でアイディアとして出てきた「市民高速ライン」の構想は、名古屋市に場所を変えて実現することになります。これこそが「基幹バス」です。

 余談ではありますが、豊田市で行われたこの一連の検討は、基幹バス以外にも置き土産を残しています。検討を行うために組織された「豊田市交通問題研究会」は、その後、財団法人豊田都市交通研究所へと発展し、中部地域の交通研究の一翼を担う組織として現在に至っています。

3.舞台は豊田市から名古屋市へ

 閑話休題。

 なぜ、豊田市で検討された「市民高速ライン」が名古屋市の「基幹バス」つながったのか。その理由は、豊田市の市民高速ライン構想の検討に参画していたメンバーの多くが、名古屋市の総合交通計画にも参画することとなったからです。

 豊田市での検討には、学識者として名古屋工業大学の渡辺新三教授をはじめ、複数の研究者が参加していました。当時、若手研究者であった中部工業大学(現 中部大学)の竹内伝史講師もその一人でした。こうした大学の研究者が、後に名古屋市での基幹バス検討にも参画することになります。

 さらに、今では考えられないことですが、豊田市での検討メンバーには、他の自治体職員も参加しています。当時、名古屋市の若手職員であった杉野尚夫氏も上司の了解を得て参加していました。この杉野氏が後に担当者として基幹バス構想の実現に奮闘することとなります。

 前置きのような話で今回は終わってしまいましたが、次回から、名古屋市で基幹バスの検討が始まった背景や検討経過について書いていこうと思います。


参考文献

  • 豊田市総合企画部計画課・社団法人中部開発センター編:1971~1985豊田市新総合計画書、1971年
  • 豊田市史編さん専門委員会編:豊田市史四巻(現代)、1977年
  • 新修豊田市市史編さん専門委員会編:新修豊田市史通史編現代、2021年