【コラム】公共交通を支える目的って何んだろうか:映画「生きる-LIVING」から考える。

一般社団法人グローカル交流推進機構 土井 勉

 公共交通をはじめ地域の人々の移動を支える仕事や活動に関わると、理想とする姿を実現するために法の壁、組織の壁、地域の壁、予算の壁など様々なものに囲まれて、まさに四面楚歌な気分になることが少なくありません。また、地域の人たちが、そうした状況とは無関係に要望や意見などを言ってこられることも少なくないですね。さらに専門家や学識経験者、首長さんや議員さん等の人たちからも、独自の視点から様々な提言や意見などをいただくこともあります。

 こうした意見に応えるにはマンパワーも予算も、それにこちら側のノウハウも追いつかないことが日常的にありそうです(「公共交通のトリセツ」は多少のサポートにはなのですが)。そこで、ついつい前例踏襲的な発想と仕事を重ねることになりがちです。

 時々、自分は何を目指してこの仕事や活動を行っているのかを問い直すことで自分の中にある、「何か」に気づき意欲が高まることがあります。

 映画や演劇・小説・音楽・スポーツ等も、こうした気づきのツボを押すものになることが少なくありません。

 現在上映中(2023年4月)の映画「生きる-LIVING」(監督:オリヴァー・ハーマナス、脚本:カズオ・イシグロ)も、こうしたツボを刺激する映画でした。元々は1952年に公開された黒澤明監督の映画「生きる」がオリジナルで、この映画をベースに1953年のロンドンに場所を移して制作されたものです。1953年のロンドンの街並みの映像には目を奪われます。

 私は黒澤明の「生きる」は観たことがありませんので、新鮮な気分でスクリーンに向かい合うことになります。

 さて、少々ネタバレになるかも知れませんが、簡単に映画の内容を紹介したいと思います。

 1953年のロンドンの役所の市民課で長年にわたって課長をやっているウィリアムズは、毎日判で押したような日々を積み重ねています。定例的な仕事で手一杯なのに、地域の人々が児童公園づくりの要望に押しかけても他の課に仕事を振るだけになっています。他の部署も、手一杯なので児童公園の設置については無関心なままです。だから児童公園を要望する人たちは、役所の各課を次々に回らされますが、状況は何も動きません。ウィリアムズも状況を動かさない側の人なのです。

 そんなある日、ウィリアムズは医者から末期がんだと宣告されます。

 残された時間を如何に生きるのか、という問題に直面します。思いつきで無理やり遊びに行ったりしますが、どうもしっくり来ません。息子夫婦とも会話がないので、心の中を打ち明ける友人もいないのです。

 試行錯誤をするうちに、「子供たちが街角や広場で遊びまわり、母親がご飯の声をかけられて渋々家に戻る子供たちは幸せだ。一方、遊ぶ友達もなく、一人で母親の声を待つ子供=自分は寂しい」ということに気づきます。

 ここから児童公園の陳情に来ていた人たちのことを思い出し、残された人生をこの公園の実現のために動き出すことになります。もちろん様々な壁が次から次へと出てくるのですが、ウィリアムズの熱意が周りの人々を変えていくことになります。そして児童公園が実現し、子供たちが晩ごはんの声がかかるまで遊ぶことができる場所になります。

  ある雪の夜に児童公園を訪れたウィリアムズは、心から満足した時間を過ごすことになります。

 我々の仕事や活動も、先に述べたように常に問題が生まれ、また人々の無関心の壁に穴を開ける努力も必要です(その際のツールの一つがクロスセクター効果であったりしますね)。

 人々の移動を支える仕事や活動は、利用者の個人がわかることで直接的な成果が見えやすいと思います。こうした利用者の人たちや、その人達を取り巻く人々の笑顔を支える活動だと思います。

 

 機会があれば、映画「生きる-LIVING」を是非ご覧ください。